1990年入学 竹内 憲さん
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1990年入学
竹内 憲 さん
【略歴】
青山学院大学経済学部卒業
全日空エンタプライズ株式会社
在職中に、2001年FIFAコンフェデ杯出場、ブラジル代表の担当コーディネーターのち、スポーツマーケティングジャパン/FIFAマーケティング出向。2002年日韓FIFA W杯 ホスピタリティ・プログラム担当ベニューマネージャー(横浜会場・埼玉会場)
株式会社クーバー・コーチング・ジャパン 本部マネジャー(現職)
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【Q1:現職、株史会社クーバー・コーチング・ジャパンでのお仕事について教えて下さい。 】
全国約150校、幼稚園生から中学生までの約20,000人を対象としたサッカースクールを運営の、?クーバー・コーチング・ジャパンの本部マネジャーとして、海外のクーバー・コーチングとの連携、及び、輸入含むサッカーグッズ販売、またそれに関わるプロモーション業務に携わっております。本学院体育会サッカー部の現役選手には、私の勤務するクーバー・コーチングのスクールにかつて通っていた選手も在籍しており、将来的にサッカーで生計を立てることを真剣に目指す現役学生(特に3、4年生)に対して、緑ヶ丘グランド周辺もしくは自宅付近の弊社サッカースクールでアルバイトをして頂いている学生もいます。子供達への指導を通じ、選手として、社会にはばたく準備として様々な経験に繋がっており、今後もその様な「win-winの関係性」を築いてければと思っております。
※現在、Jリーグで活躍している荒木大吾選手(京都サンガ)、下重優貴選手(ジョイフル本田つくばFC)も、クーバー・コーチングでアルバイト経験あり
【O2:大学時代の心に残る思い出を教えて下さい。 】
大学4年間の一番の思い出は、綱島グランド整備と、練習後の居残り練習です。当時は「ヤキ」と呼ばれていましたが(笑)
現状のメンテナンスの行き届いた、緑ヶ丘の人工芝グランドでは考えられないことですが、当時は、1年生部員の1日の最初の役目として、綱島にあったグランド整備と備品準備を、先輩達がグランドに来る前に終わらせ、直ぐに練習ができる様に準備することでした。
硬い土のグランドで、しかも、アメフト部とピッチを半分ずつ使用という、限られたスペースでの練習でした。 週末になると、アメフト部がリーグ戦のみでグランドを使用しており、特に悪天候と重なった時には、気持ちがブルーになったのを今でも覚えています。というのも、雨天時のアメフト部の試合後はスパイクの跡で、グランドがひどく荒れており、月曜日、オフ明けにグランドに来てみると、フラット(平)であるはずのグランドが、葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖波裏」級に波打っていたからです。(笑)
練習時間が迫るなか、先ずはアルミ製のグランド整備用レーキでグランドを耕し、次に、重い整地用グランドローラーを数名で引っ張り、それでも凹凸が激しいところは砂入れをしてトンボをかけ、またローラーを掛けて整備、という、それはとても大変な作業でした。練習前に手にマメができることもあり、特に夏場は、暑さで練習に入る前から既にへとへとになることもありました。
その整備したグランド状況によっては、連携プレーの練習中にボールのバウンドが突然変わったり、トラップミスを誘発したり、また最悪な時にはトップチームの選手が捻挫等の怪我を引き起こしてしまうケースもありました。そんな時は決まって練習後に、4年生から、「1年生、2年生集合、"お前らわかっているよな”」、とコールがかかるのです。1学年上の2年生先輩達までもが連帯責任として巻き込まれ、全員がグランド周囲のトラック400ⅿを約1分前後にてゴールすることを目標に走らされ続けたことを覚えています。みんな無我夢中で、苦しいことに間違いないのですが、不思議なことに、何本か走るうちに、全員でなんとかゴールしようという「連帯感」が自然に生まれてきたのを覚えています。それでも、どうしてもタイムの切れない部員には、4年生からの死角をついて、「終わるまでこの場所で隠れて倒れていろ!」と指示したケースもありました。今だからこそ言えますが(笑)その当時のメンバーにとっては、この様な思い出も今となってはとても懐かしく感じている方も多いのではないでしょうか。卒業し社会に出てからも、先輩・後輩達と交流を続けてこられているのは、この四年間があってこそと確信しています。
【O3:FIFAワールドカップ2002日韓共催大会でブラジル代表チームをアテンドされた思い出を紹介して下さい。】
本当に色々なことがありました。もうかれこれ20年以上前のことなので、時効と言うことで体験した思い出を、幾つか書かせて頂きます。
【2001年コンフェデ杯のブラジル代表のアテンド】
最初に、2001年5月に東京ヴェルディ1969とのエキシビションマッチとコンフェデ杯に出場するために来日したレオン監督(元エスパルス・ヴェルディ川崎監督)が率いるブラジル国内メンバーを中心とした、ブラジル代表のサポートをした時の話です。
成田空港に到着する予定のヴィリグ・ブラジル航空が、到着日の天候不順(確か台風の影響)で、名古屋空港に緊急着陸、急遽名古屋駅から新幹線にて東京駅に向かうこととなりました。旅行代理店担当者、通訳の方と私の3人で、新幹線で移動のブラジル代表を東京駅まで迎えに行くことになったのですが、急遽の変更となったため、ブラジル代表の乗車するバスの駐車申請を事前にできず、本来は駐車してはいけない東京駅八重洲ヤンマービル前の外堀通り沿いに、運転手に無理なお願いをして待機して頂きました。そして新幹線を降りたブラジル代表をバスまで引率するにあたり、どうしても人混みの多い八重洲地下街を通るルートしかなく、また18時過ぎでサラリーマンの帰宅時間と重なってしまい、突然のブラジル代表の出現に人垣ができ、パニックとなったのは言うまでもありません。あの状況下で、なんの事故もなく選手を引率できたあの出来事は、東京駅八重洲口に行くたびに今でも鮮明に思い出されます。
都内ホテルまで無事に連れて来られたのも束の間、選手の食事のメニューについて代表スタッフと打ち合わせが始まりました。事前に協会から、ブラジル代表のメニユーを聞いており、ホテルの料理長とも調整を終わらせていましたが、急遽、選手の飲料を、「フレッシュ・ガラナ・ジュース」
http://www.arai-guarana.jp/product/sponsor.htmlで、しかもいつでも飲める様に手配してほしいとのリクエストがきたのです。
食事まで時間がない中、色々なところに連絡をとり、唯一国内において石垣島でガラナが入手できるという情報を得て、さっそく確認したところ、なんと、フレッシュではなく昨年収穫したフローズン(冷凍)しかないとのことで断念せざるを得ない状況になってしまいました。ところが、同タイミングで、今回のブラジル代表の来日滞在中に、ユニフォームの胸スポンサー企業が、コカ・コーラからガラナ・アンタルチカ(アンベブ社)に変更することとなり、それに合わせ、ガラナ・アンタルチアの輸出販売先である国内商社から、「フレッシュ・ガラナ・ジュース」の無償提供の連絡が入ったのです。ブラジル・サッカー連盟(CBF)と18年の長期契約、また年間1,000万USドルというビックマネーが動く、まさに始まりを実感した瞬間でした。また当然、翌日からの練習着、ポロシャツの胸スポンサーゴロマークもすべて、ガラナに変わっていました。
また、直ぐに用意してほしいと、全選手全員各1機ずつのレンタル携帯電話の手配を依頼されました。なんとか短時間で、当時では珍しい国際電話が可能なレンタル携帯電話を用意することができました。ところが、コンフェデ杯3戦目の対日本代表との試合前日に、ブラジル・サッカー協会から韓国行きが決まったので、試合後に個々の選手の携帯電話の清算をお願いしたいとの連絡が入りました。日本代表との試合前から韓国行きを決めていたとは驚きでした。最初から韓国での試合をシュミレーションしていたのかもしれません。
試合後食事を終え各部屋に戻ってきた選手に、通訳の方と、個人別に、通話料金の精算業務がスタートしました。時は既に夜12時を超えていました。当時は、CAT端末(クレジットカード決済端末)もなく、スライド式(カーボン転写式)のクレジットカード決済機インプリンター(略称「ガッチャン」で理解していただけるかと思います。)と、クレジットカード決済カーボン用紙を片手に、選手の部屋へ、一室一室訪問することになったのです。
ただ、清算業務をする上で1つ重要な問題が発生しました。当時、レンタル携帯電話の課金金額を確定する上で、レンタル電話一式を携帯会社に返却しないと請求金額がわかならい通話料金課金システムとなっていました。その為、携帯電話を返してからの精算では間に合わないため、選手達には、こちらを信用してもらい、金額を記入しないままの、ブランクのクレジットカード決済用紙にサインしてもらう方法をとらざるを得なかったのです。
各部屋に行き、一人一人にこの事情を説明し、金額が空白のクレジットカード決済用紙に半分ぐらいの選手からサインをしてもらった頃でしょうか、MFバンペッタ選手(当時パリ・サンジェルマン所属)から申し出がありました。残りの全選手の携帯電話料金を、自分のクレジットカードにまとめチャージしてくれて問題ないというのです。その寛大な対応のおかげで、無事に清算業務を終えることができました。時刻は既に3時を回っていました。
数日間しか共に過ごしていないにもかかわらず、ブラジル代表選手から、そのような了承を得られ、サインを頂けたことが非常にありがたく、同時にセレソンのファンになった瞬間でもありました。
そしてこのメンバーから数名が、翌年の「2002日韓ワールドカップ」に選ばれ、優勝するのでした。もちろんバンペッタ選手も優勝メンバーに入っていました。
【2002年日韓ワールドカップ】
2002年、勤務先から、「スポーツマーケティングジャパン/FIFAマーケティング」への出向が決まり、オフィシャル・パートナー向けのホスピタリティ・プログラムをメインに、準決勝の埼玉会場、決勝戦の横浜会場のベニューマネージャーとして担当することとなりました。
なかでも、世界中を騒がせた観戦チケット問題は今でも忘れられません。バイロム社(イギリス)が、FIFAから発券業務を任されていましたが、偽造防止の刻印がうまくいかなかったようで、なかなかチケットが発行されませんでした。FIFAとしては、期日までに大会パートナー企業に、チケットを渡すことができないという失態だけは避けたいところです。当時の私のフランス人の上司から、チケット印刷工場のある「マンチェスターまで日帰りで行って、チケットとってこい!」と、どやされもしました。成田からのフライト情報まで調べましたが、実際は非現実的とのことでなくなりましたが(笑)
マッチ・デー当日になっても、チケットを受け取れない人がたくさんいたのも事実です。 「入場口前で『カネ振り込んだのにチケットが届いていない』と、トルコ人30名の団体が文句言っています」、警備員からこんな連絡ばかりきました。あちらこちらのゲートで、バイロムの担当者と急いで向い、入金者リストをチェックし、チケットを渡して、ひたすらお詫びをして、座席までの誘導を指示して、、、の繰り返しでした。
サッカーの最高峰のワールドカップと言う世界最大規模のスポーツ大会の運営に携われた経験は計り知れないものであり、いまの仕事にも活かされていると感じています。
また現在、(公財)東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会で、青学サッカー部のOB,OGが活躍されています。コロナ禍で延期となりましたが、大会が無事開催されることを願っております。
※オリンピック:平野大輔(H15年度卒)、石福敬一(H24年度卒)、パラリンピック:影山範子(H21年度卒)
【O4:青学サッカー部の後輩たちへのメッセージをお願いします。 】
現在、本学サッカー部OB会に携わっており、週末時間がある時は、現役の皆さんを応援しに、リーグ戦は、出来るだけ試合会場に足を運ぶ様にしていました。今期はコロナ禍の影響で応援人数も限られており、応援に行けず残念ですが、トップチームの選手は、他チームメイトと一緒にピッチにいると思い、今シーズンの公式試合に臨んでほしいと思っております。
また現在、関東大学リーグ5位、インカレ出場5位、総理大臣杯準優勝と、過去の記録を更新できていない状況です。まずは関東1部リーグ昇格を目指し、是非ともチーム一丸となり頑張ってほしいです。
3年後には本学サッカー部は創部100周年を迎えます。OB、OGもできる限り現役チームのサポートをさせて頂くつもりです。3年後に一緒に創部100周年を祝いましょう!