チームスポーツをやることの責任
40年前、父親から教わった野球が凄く楽しく、明けても暮れても夢中になって励んだ記憶がある。しかし転校先の小学校には少年野球チームはなく、チームが創設されるまでの期間、クラスメイトを誘っては、日々草野球に没頭し、勝った、負けたと放課後のほとんどの時間を野球に費やしていた。ある時、友人に誘われ軽い気持ちで地元のサッカー少年団の練習を覗いてみた。生まれて初めて観たサッカーだったが、誰もが笑顔で楽しそうに走り回り、声を掛け合いながら一生懸命にボールを追いかける輝かしい姿がそこにはあった。幼い私の心(好奇心)に火がついた瞬間だった。野球にひたすら飢えていたそんな時期に、なんとも楽しそうなサッカーと偶然出会ってしまったのだから。(笑)私はその場で即座に入団を決めてしまった。野球とサッカー、どちらも最高に楽しかった。だが最終的にサッカーを選んだ、というよりはサッカーの魅力に完全に取り憑かれてしまった。私は元来、人との触れ合いやコミュニケーションをとることが大好きな性格で、サッカーというスポーツと出会ってからは、数え切れないほどの人と出会い、たくさんの仲間から多くの『喜び』と『幸せ』をもらった。もちろん人間としても大きく成長させてもらった。今の私の人格は、この掛替えのない仲間との出会いによって形成されたと言っても過言ではない。
サッカーの指導者になって23年。サッカー界のある方に次のように言われたことがある。
「人生は『金持ち』になっても何の価値もない。『人持ち』になってこそ価値がある。だから、お前のやっていることは誰にも真似のできない素晴らしいことなんだよ!」と。ありがたい言葉であった。確かに小学3年生の時に『サッカー』というチームスポーツと出会ったお陰で、47都道府県全てに足を踏み入れ、全国に友人や知り合いを持てたことは最高の喜びであり、一生の『財産』になっている。この何にも代えがたい人生を、自分の『生きざま』として、一歩一歩、確実に歩んでいることを実感できる。
サッカーのようなチームスポーツは、決して一人ではできない。もちろん自分勝手やわがままも許されない。チームメイトとの関わりは深く、時に共に励ましあったり、支えたり、支えられたり、そしてチーム一丸となって大きな『夢』や『目標』に向かってコツコツと積み上げていくものである。チーム作り、そこにはチームみんなの汗や涙が染み込み、『絆』として、より強さを増しながら大きく成長していくものである。決して他人が勝手に入り込むことなどのできない『神聖なる成長の場』であり、『信頼』と『責任』で積み上げられた『友情ピラミッド』へと姿を変えていくのである。所謂、チームが強い『絆』で結ばれるようになるということである。
しかし近年、自分勝手な選手が増えているのが見て取れる。自分一人の努力で積み上げたピラミッド(チーム)でもないのに、中段の岩ブロックを勝手に引き抜き、完成直前のチームピラミッドを不安定にさせることに何の抵抗や責任も感じない選手がいることである。苦労を共にした仲間の気持ちなど何も考えていない。選手によってはチームの重要な役割(ポジション)を任され、それを引き受けておきながら、肝心な時(大会直前)に突然辞めてしまうという無責任な思考や行動には正直驚くばかりである。仲間に支えられ、仲間がいたからこそ、これまでサッカーをやれたことへの理解もなければ感謝もない。『我慢』や『辛抱』のできない選手や、仲間のことを大切に思えないような選手は、チームスポーツをやる資格は無い。たとえいかなる理由があっても、どんなに格好の良い言い訳をしても、全ては無責任な『行動』がその人を語っているのだ。
冒頭述べた『人持ち』とは、長年、いついかなる時も周囲を気遣い、尊重し、支えてくれた仲間を『裏切らない行動』の積み重ねから得られる『一生の財産』を持つことである。それは育成年代からその人の『意識』と『行動』によって築き上げられていく『習慣』の流れであり、これを蔑ろにする者の中に、優れた選手は過去にも現在にも存在しない。チームスポーツをやることの本当の『喜び』と『責任』を理解しなければ、自分の人生に咲く『花』などはない。
2016/01/04 09:05