指導者は何で評価されるのか
モウリーニョやグラウディオラ、野村克也や長嶋茂雄、豊臣秀吉や徳川家康。世界や日本の長い歴史の中で活躍してきた指導者は数えきれない。一般的に「良い指導者」や「優秀な指導者」とはどんな指導者なのだろうか。「良い指導者」の定義とは何なのか。指導者の何を見て「優れている」と言えるのか。そして「指導者の力」は何で評価されるべきなのか。人それぞれ指導や教育の考え方は異なる。優れた指導者の条件とは現役時代に「優秀な選手」であったことなのか、「上級ライセンス」を取得していることなのか、プロ選手を「輩出した数」なのか、それとも明らかな「結果を残した人」なのか。実際には指導者という立場において「優秀」の定義など存在しない。しかし全国で「名将」と呼ばれ、数々の結果を残してきた指導者や、世界のスポーツ界で「優秀な指導者」と呼ばれる人物と、「一般的な指導者」とではいくつかの「絶対的な差」があることがわかる。それは「成果」を残し「達成」させるための「揺るぎない努力」と「説得力のある行動」「結果への強いこだわり」「分析力と感性」の差ではないだろうか。さらには、目的が明確であり、そこに辿り着くための戦略やコンセプトが緻密で妥協のない「強い信念」の差であるとも言える。新しいものにばかり心を移し、指導者としての信念が欠落している、いわゆる「勘違い指導者」が年々増えているように感じる。これらの指導者は、選手に対して自分の理念を「落とし込めない」「理解させられない」「実践させられない」のが大半である。「伝えた」「言っておいた」「説明しておいた」という自分本意の指導概念だけでは、いくら指導講習を受けても大きな成果にはつながらない。講習や研修において、本来の指導者としての「性格」や「性質」は変えられないということである。
世界に目を向けると、やはり何らかの結果をもたらし、多くの人々の心に「感動」を与え得た実績がなければ、指導者としての評価は得られていない。世界の名将たちは、「言葉」で選手たちの「共感」を突き動かす。それは時に挑発であり、鼓舞であり、選手たちの心を自在にコントロールする。そして選手の管理、距離感、言葉掛けなどにおいて「理解」と「実践」を同時に促すことができるのだ。そこには明確なコンセプトが隠されており、「勝利」と「感動」が生み出される。人から求められることや、期待されることに「明確な結果」として応えられる能力が「優秀な指導者」の絶対条件だということがわかる。世界の名将は、組織を自分の理想どおりにコントロールし、勝利に導く。
賢さでもなければ、学歴でもない。選手実績でもなければ、指導ライセンスでもない。我々指導者が磨かなくてはならないのは、 「伝える力」と「理解させる力」「実践させる力」であり、そのために必要な「知識」や「教養」「経験」はもちろん重要だが、それが最優先ではないということだ。後から付いてくるものなのだということを深く認識しなければならない。
良い指導者の定義は存在しなくても、「机上の空論家」や「生み出せない評論家」は、周囲から評価されないことや、結果を残せていないことも理解できる。インターネット社会が生みだした「デジタル指導者」や「勘違い指導者」が激増する現代だからこそ、「アナログ指導者」が重要になってくる。人を育てる仕事にデジタル化は必要ない。「無駄なことほど無駄じゃない」「コツコツと積み重ねる大切さ」「夢実現に近道はない」これらを心と言葉で必死に伝えていかなくてはならない。それが指導者の仕事である。
指導者の評価は、周囲からの信頼、期待、求められる「数」こそが「評価の値」なのだと言える。
そこには必ず「感動」と「感謝」が存在するはずだ。
2017/12/15 12:57