『足元を見つめる。』/田中星凪
お世話になっております。地球社会共生学部4年の田中星凪と申します。
厚さんがメンバーを発表する時、神田さんに怒られる時、試合中後輩がボールを要求してくる時など、普段は「ジャパ」と呼ばれています。
この引退ブログでは、私がどんな人間なのかを少しでも知ってもらう良い機会かと思い、4年間の想いと感謝の気持ちを綴りました。
長い文章となってしまったのですが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。
「青学を2部に昇格させ、全員笑顔で喜びを分かち合う」ことを夢に見てきたこの1年間。
結果は、関東3部リーグ7位。個人のベンチ入り2試合。出場3分。
最終節は試合のサポートをしている姿しか両親に見せることができず、笛が鳴り引退が決まった瞬間、「こんな終わり方は嫌だ」と、危惧していた結果が現実となった。
遡ること、大学1年生春。
「俺みたいな選手が青学でやっていけるだろうか」そんな不安を抱えたまま私の大学サッカーは始まった。
肩書きや実績を引っ提げて入部してきたみんなは、自信に満ち溢れた顔をしていたが、私は到底そんな顔は出来そうもなかった。なぜなら私は、サテB(Cチーム)の練習試合、最後の本数の途中から出るだけの1番序列が低い選手。Iリーグデビューも1番遅く、劣等感を抱えながら日々過ごしていたからだ。
練習がない午後やオフの日は、筋トレか淵野辺公園に1人でボールを蹴りに行ったりなんかもしていた。同期のみんなが苦労してきたのは知っているが、本当の底辺の底辺を経験しているのは私だけだと言いたい。
振り返ると大学1年は、序列相応の顔をしながら、みんなに追いつくため、もがいていた1年間だった。この1年間が影響したのか、「先を行く同期や先輩と肩を並べて関東リーグを戦いたい」と思うようになった。
大学2年。夏から留学で半年間チームを離れたり、年末には青学の関東3部降格も経験した。
この時は正直、「青学3部落ちたのか」と、チームを他人事のように捉えていた気がする。
大学2年3月もまだサテBに所属し、分かる人には分かる、高校生に惨敗したあの伝説の試合や、アンビションズカップとは名ばかりの、我々のアンビションを削いでくる御殿場合宿にも苦しめられた。
大学2年の最後の時期に1番下のカテゴリーで尚且つ、毎試合大量失点の日々、目標の関東リーグ出場は無理かな、そう思っていた。
しかし、「せなならトップでやれると思う」とその頃から言ってくれていたコーチのゆうとさん。「俺らで青学変えるぞ。誰よりも声出して練習してみようぜ。」とサテB同期2人だけで一緒に乗り越えてくれた、のあ。
そんな素敵な出会いもあり、「青学を俺が2部にあげる」と、思うようになってからプレーも良くなり、大学3年でやっとサテA(Bチーム)に上がることができた。
大学3年のサテAで過ごした1年間は同期や先輩にも恵まれ、充実したシーズンだった。
大屋やわせい、じゅん、りつき、開、あさひ、安藤、谷口、はるきなど、同期も多く、新鮮なメンバーでIリーグ1部を戦うことができた。
しかし、結果はIリーグ2部降格。
当時のコーチである直さんは、信頼して試合で使ってくれていたが、私のミスで勝点を落としたり、怪我をしたりと、降格した責任は自分にもあった。
シーズン終盤、チームが法政に勝った時には、安藤と一緒にベンチを温め、みんな喜んでる中私と安藤でパス交換しながら、心中を語り合ったのを覚えている。
その後、プレーオフで負け、降格が決まり、4年は全員号泣。自分の力不足、チームとしての甘さが浮き彫りになった1年であり、シーズン終了後の学年写真では、私とのあだけ1ミリも笑っていない写真が残った。
「こんな終わり方は絶対にしたくない」。最後の1年が始まる前、自分がどのように引退したいかを真剣に考えるようになった。
そして、
「青学を2部に昇格させ、全員笑顔で喜びを分かち合う」
という目標を最高学年で達成する、と心に決めた。
大学3年の2月。トップに上がり、やっとスタートラインに立つことができた。
人生で1番嬉しかった。
特に、「常に自分の先を走っていた星太達や、下から這い上がってきた同期達」と一緒に関東を戦えると思い、胸が高鳴っていた。
その反面、自分のポジションには、斎藤や和田、國分、堀、木村など、非凡な後輩達もいて、試合に出れないことも覚悟していた。
そして、4月。待ちに待った関東リーグが開幕したが、1年を通しメンバー外が続き、毎試合応援やサポート。覚悟はしていたが、悔しい気持ちは常にあった。
監督の厚さんは、口癖のように「全員を幸せにできない。役割を理解してチームの力になる行動をしてくれ」と仰っていた。
本当にその通りで、私は「メンバーに入れない実力である」という現状と「応援やサポートを全力でやる」という役割を理解していた。
しかし、目標と現状の差が大きく、引退が迫る度に、焦りや不安が態度に出ていたと思う。
ホーム専修戦、ひさとと松田と3人で応援していたのだが、4年のゴールパフォーマンスが頭に来て、「あれについて何も思わないのかと」厚さんに考えを主張したこともあった。応援においての存在感はあったため、そんなんは言えた。そんなんしか言えない自分にも腹が立った。どうしても自分の序列や存在感以上のことはできず、悔しさを覚えていた。
シーズン終盤、知らぬ間に部員で1番応援した時間が長い選手になっていて、「最後までベンチにも入れないんじゃないか」そんな不安がずっとあった。
もうすぐ引退なのに、4年のトップでベンチ外は毎回私だけ。グループLINEに送られてくる、メンバーの通知を見るのも嫌で、メンバーが貼ってある、あのホワイトボードが最後まで嫌いだった。
しかし、悠ややまととかが、頼むぞ、やるぞ、と私を鼓舞してくれること、輝一が関東のベンチにいてくれること、他にも何気ない言葉に救われることがあった。
決して、応援するために入部した訳じゃない、本気で試合に出たかったはず。
しんどかったはずなのに、チームメイトが点を決めた瞬間は、自然とその方向へ足が動くし、試合に勝てば全員と熱く抱擁していた。
何が私をそうさせたのか。4年間を振り返ると答えは自ずと見えてきた。
練習後ボール回しして騒いだり、温泉で語り合ったり、色んな所に遊びに行き、沢山笑った日々があるから、私はサッカーでこそ最高の思い出を作りたかった。
雨でも雪でも、くそ暑い日でも、朝練に行き、神田さんの苦しい走りも全員で声かけ合ってやり切った。2部に昇格し、この仲間と一緒に喜ぶ瞬間はどれだけ幸せか。考えるだけで高揚していた。
この仲間でこそ成し遂げたいものがあった。
この4年間積み上げてきたものを結果で証明したかった。
未熟な私にも、そう思わせてくれるような仲間がいたから、最後までチームの為に戦うことができたんだと思う。
2025/11/15
最終節の笛が鳴り、冒頭でも書いた通り、「こんな終わり方嫌だな」と思っていた結果になってしまった。
スタッフ、マネージャー、同期、後輩、何より両親への感謝を、目に見える結果と共に伝えることができず、悔しさ涙と共に、私の大学サッカーの幕が閉じた。
今までを振り返ると、様々な感情が込み上げてきます。こんな私でも最後までやり切ることができたのは、関わってくださった方々のお陰です。
最後にこの場を借りて、感謝の気持ちを書かせてください。
スタッフ
人柄や情熱で、サッカーをすることに希望を持たせてくれたゆうとさん。どのカテゴリーにいても、常に気にかけてくれた酒井さん。桜美林に行ってからも、「せな関東でてたな」と喜んでくれた直さん。きつい走りと熱い言葉をくれた神田さん。4年生中心に愛情を持って接して頂き、こんな私でも最後までトップに置いてくれた厚さん。
4年間を通し、沢山のスタッフにお世話になりました。人に恵まれ、青学でサッカーができたことを誇りに思っています。
4年間ご指導頂き、ありがとうございました!
後輩
怪我をしてもリハビリには、和田や斎藤、サテBでは堤がいてくれて、そんな時も楽しかったです。小高や松田、あやとにはよくピッチで怒られました。頼りなかった自分は、一個下に支えられていた部分が大きかったです。
そんな自分が伝えられることは、メンバー入れなかったとか、関東2部上がれなかったとかに、一喜一憂していたら、あっという間に4年間の大学サッカーは終わってしまう、ということくらいです。
今を大事に、青学サッカー部で一花咲かしてほしいなと思います。
応援しています。ありがとう。
特に久我山5人頑張れ。
マネージャー
関東で一緒にサポートすることが多かった私は、マネージャーの大変さを人一倍感じました。細かく目立たない仕事の中にも、選手同様の準備や根気が必要であり、ピッチ内外共に支えられていたと改めて思います。りんかを中心としたマネージャー陣がいてくれたから、しんどいはずのメンバー外が、良い思い出に変わりました。辛いことが多かったとは思いますが、選手を信じ、一緒に戦ってくれて本当にありがとうございました。
同期
大学生活で1番近くにいた存在であり、一人暮らしの私が寂しいと感じることがなかったのは、毎朝緑ヶ丘に行けば会える仲間がいたからだと今になって思います。各々の努力を知っていて、人として尊敬できる仲間と出会えて幸せです。
これから先、辛いこと、苦しいことに直面しても、「俺はこの同期と一緒に4年間やってきた」と、自信になってくれるような、そんなメンバーでした。
4年間沢山の思い出を本当にありがとう!
これからも仲良くしてくれたら嬉しいです。
父、母へ
最終節、「最後くらいは親に良い思いを」と頑張ってきたのですが、ピッチで活躍する姿を見せることができず、ごめんなさい。
私は昔からそんなことばかりで、遠くまで送迎してもらって試合に出ないことや、病院へのリハビリに一緒に来てもらうことも多くありました。自分以上に大変な思いや我慢してきたことがあるにも関わらず、大学までサッカーをさせて頂き、本当にありがとうございました。
父との公園でのサッカーや車と家での反省会。母が朝早く起きて作ってくれるお弁当や、掛けてくれる言葉。
全てが自分のためになっていて、この両親でなければ、こうしてサッカーをやり切ることはできなかったと思います。家族の献身的なサポートに見合った活躍を最後まで見せることができませんでしたが、心からサッカーをやってきて良かったと思っていますし、この家に生まれて幸せだったと感じます。
この家族に恥じないよう、これから色んな面で恩返しできるよう、頑張ります。
私の17年間のサッカーを見守り、サポートして頂きありがとうございました。
そして、大学卒業まで育てて頂き、本当にありがとうございました。
最後に。
地元の少年団から始まり、青学サッカー部で引退したこのサッカー人生は、私の誇りです。
サッカーを通じて数々の人に出会ったお陰で、選手として、人として成長することができました。本当にありがとうございました。
そして、この17年間のサッカー人生に意味を持たせるため、これまで以上に邁進していきます。
長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました!
2025/12/14 20:16