『本心』/ 山田智暉
平素より大変お世話になっております。
社会情報学部4年、今年度主務を務めました、山田智暉です。
今日は11/17(日)、昨日、4年間の部活動が終わり、サッカー部を引退しました。
他会場の結果によっては昇格プレーオフに進出できましたが、惜しくも目標は叶いませんでした。来年こそ、後輩たちが目標を達成してくれると信じています。
さて、4年間の大学サッカー、そして12年間のサッカーを締めくくる「引退ブログ」に何を綴ろうか迷っています。
大学に入って「続ける」、「感情任せ」というためになりすぎるブログを2度も書いてしまったので、プレッシャーです。(ホームページから見られます。)
引退ブログを前半に出した組は締め切りを完全に忘れていた人がほとんどだと思うので、ゆっくり書けるだけありがたく思います。前半組の庄司くん(4年・山形中央高)は「真面目に書きたかったけど、結局ふざけたわ!」と言っていたので、とても面白いブログを書いていると期待しています。彼とはサッカー部に入部してから、サテB、サテA、トップと基本的にずっと同じカテゴリーでプレーしてきたので、性格は大体わかりますが、締め切り前日の夜中に焦って書いていることを容易に想像できます。ただ、それでも笑いをとりにくるのが彼なので、まだ庄司くんのブログを読んでない方は絶対に読んでください。とハードルを上げておきます。
すみません。前置きが長くなってしまいました。’後輩’の宮崎開(3年・日大藤沢高)に「早くしろよ。おせーよ」と言われそうなので、そろそろ本題に移りたいと思います。今回の引退ブログでは、人生で最も濃密な4年間で思惟したことについて、正直に綴ろうと思います。最後のブログですので、だらだら書きますし、面白みに欠ける話になります。本当に時間がある人だけ最後まで読んでみてください。(10分くらい頂きます)
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「私はなぜ17年間という人生のほとんどの時間をサッカーに費やしてきたのか」
大学の友人やアルバイト先で「体育会でサッカーをやっている」と言うと大抵の場合、「大学で本気で部活をするのはすごい」と言われる。それと同時に「なんで部活やっているの?」と聞かれることがある。
この質問を受ける度、私は心の中で自問していた。
“なぜサッカーを続けているのか”
この問いについて、4年間考え続けたが答えは長い間わからなかった。
プロになりたいという夢もなければ、サッカーは好きだけど、死ぬほど好きという訳でもない。大学サッカーを始めたきっかけも高校サッカーを不完全燃焼で終えたからというだけで、大学サッカーでの明確な目標があった訳ではない。そんな私は、この問いにかなり苦しめられた。おそらく、同じようなことを考えている選手は多いのではないだろうか。
しかし、4年間の終わりに近い状況に立たされた今ならこの問いに対して、
「チームのためにサッカーをしていた」
と自信を持って答えられる。
高校3年の3月、期待と不安が入り混じる中、新たな環境に飛び込むことに胸を躍らせながら、緑ヶ丘グラウンドに足を運んだ。(不安だったので、同じ都立校の敬互(4年・東大和南高)に連絡を入れました)
グラウンドに着くと、スポーツ推薦組の選手がすでに集まっており、仲の良い雰囲気を醸し出していたため、圧倒的なアウェイ感を感じながら、さらに緊張したのを鮮明に覚えている。練習が始まると、技術の差に圧倒された。見たことのないスピードでドリブルをする翼(4年・浦和レッズY)、技術が高すぎる嘉伊人(4年・浦和レッズY)、パンチがありながらもコントロールもできるシュートを放つ陸斗(4年・尚志高)、何でもできちゃうよし(4年・清水エスパルスY)、春なのに黒い大策(4年・大宮アルディージャY)。1人1人のプレーは、私が想像をしていたレベルを遥かに超えてきた。そんな選手達と同じ環境でプレーできることに強い高揚感を感じたと同時に、4年という限られた時間の中で自分はこの選手達と同じピッチで試合に出場する瞬間は来るのか。
そんな大学サッカーへの不安も感じた。
大学1年、サッカーについて考えさせられる年だった。
正式にサッカー部に入部し、続々と入部する新入生。練習も少しずつ、体を慣らす段階から青学としてのサッカーを学ぶための練習となっていった。それまでのサッカーの質や強度とは全く異なる日々の練習が新鮮でサッカーの楽しさを改めて感じていた。そんな楽しみを感じていたのも束の間、カテゴリー分けが行われ、私は最下層のサテライトB(以下、「サテB」)に選出された。都立高校出身であり、技術も強度も足りていなかった私にとっては当然の結果であったが、どこかで他の人よりは上手いのではという思いを抱いていたのでかなり悔しかったのを覚えている。ただ、高校時代も最下層からトップチームのレギュラーまで這い上がった経験があったため、
「置かれた環境で“とりあえず”頑張ってみる」
という想いを持って、サテBでの練習に励んだ。
そんな中、大学に入り、初めての公式戦(Iリーグ國學院大戦)。当時のサテBの先輩は優しい方々が多く、プレーしやすい環境を作ってくさり、幸いにも開幕戦をスタメンとして出場した。しかし、ガチガチに緊張した結果、2-4で惨敗。最下層のカテゴリーでさえ、自分は何もできず、大学サッカーのレベルの高さと自身の未熟さを痛感した。ただ、それ以降は4年間で最もサッカーを楽しんでいたのではないかといっても過言ではないほど、サテBでのサッカーが大好きだった。毎試合、難しい試合ではあったものの、匠人(4年・狭山ヶ丘高)のキレキレドリブルや宙(4年・山形中央高)の劇的ゴール、貴也(4年・真岡高)のフリック(?)などで勝ちを重ねていった。初戦の敗戦以来、勝ち続けていたサテBに所属していた私は個人としても評価していただき、夏頃にサテライトA(以下、「サテA」)に昇格するための選考期間をもらった。期間は1週間。Iリーグで勝てていなかったサテAの練習は殺伐とした雰囲気でとても緊張感があったが、何とか食らいつこうと必死で練習に臨んでいた。スポーツ推薦組や強豪校出身の俊真(4年・國學院久我山高)や遼成(4年・日大藤沢高)がすでに所属していたサテAの練習はサテBの練習とは全てが段違いであった。そんな厳しい環境下で1週間を過ごし、宙と共になんとかサテAに昇格した。遥か上に見ていた仲間と同じ環境でプレーできる高揚感、都立校出身でありながらサテAに所属できる優越感、そんな感情が生まれ、わずかな過信とともに叫びたくなるほどの喜びを味わった。
だが、ここからは思い出したくもない。
サテA昇格後も、スタメンとして試合にコンスタントに出場することが出来たものの、毎試合0-3や0-5で負け続けた。
あと一歩で点が入る。
あと一歩で失点を防げる。
ただ、そのあと一歩が何よりも遠かった。そんな状況が、夏頃からシーズン終わりまで続いた。応援してくれる仲間がいる前で、試合後に挨拶に行く時は謝罪しているように感じていた。何をやっても勝てない。
試合後の帰路で1人静かに涙を流していた。
「なぜサッカーを続けているのか」
という問いが自分の中で芽生えた瞬間であった。
サテBにいた時は純粋にサッカーを楽しんでいたから続ける理由があった。しかし、サテAで負け続けていた当時、練習は負ける度きつくなる上に、勝てないサッカーは少しずつ楽しくなくなった。高校サッカーの延長で大学サッカーを始めた当時の私にとって、純粋な“楽しい”という感情なしにはサッカーを続ける理由がなかった。
自らを精神的にも身体的にも磨耗し続け、ファーストシーズンを終えた私は
サッカーを辞める決断をした。
がこうして4年間サッカーを続け、引退ブログを書いている。
1度はサッカーを辞める決断した私だったが、その後、両親やお世話になった方々、友人に相談をした。辞めるとは決断したものの、引き止めてほしい想いがあったのだろう。1年次に書いた【続ける】というブログにはサッカーを続ける理由としてそれっぽいことを書いたが、正直にいうと、人生の大半を占めてきたサッカーの呪縛はそう簡単には取れなかっただけである。つまり、惰性でサッカーを続けていた。
大学2年、最低な1年だった。
1年次にサテAでプレーをしていた同期がトップチームに昇格する中、私だけがサテAに残った。なんの目標もなく惰性で続けていたことが技術の向上に繋がっていなかったのだと思う。自身がサテAにいる状況に悔しさは感じていたものの、特にサッカーについて深く考えることはなかった。Iリーグは1年次ほど、負けは無いし、サテBにいた時ほど勝つわけでもない。淡々と目の前の練習、試合に取り組んでいた。自分がチームから求められるのであれば、チームのために全力でプレーをするし、チームの鼓舞もする。表面上はチームのために働きかけていたが、中身は空っぽだった。
1日1日を無駄にしていた。
唯一、心が動いた瞬間はトップチームが関東2部リーグ残留を決めた瞬間とIリーグ最終節の法政戦。(2つか。)ただ、どちらもピッチ外。
そんなこんなで1年が過ぎ、セカンドシーズン終了。
大学3年、サッカーを続ける理由を新たに見つけた年だった。
結論から述べると、サードシーズンは3ヶ月ほどしかサッカーが出来なかった。惰性で続けているなら嬉しいのでは?と思うのが普通だが、毎朝練習に行き、リハビリを続ける日々は当時の私でも退屈に感じていた。肋骨骨折、肉離れ、左肩靭帯断裂。やっとの思いでリハビリを終えたと思えば、数週間で怪我人に出戻り。「智暉ってずっと怪我してね?」と何度も言われたが、そんなこと自分が一番理解していた。ストレッチやマッサージ、筋力強化。怪我をいち早く治すために全力を尽くしていた。それでも、すぐに別の箇所を怪我する。トップチームにいながらも使い物にならない自分が情けなかった。怪我人として、チームを傍観していた日々は何も面白くなかった。
ただ、何度も怪我をしたことで新たな価値観を得ることができた。
それは
「マネージャーとしての視点」
ここでいうマネージャーとしての視点とは、チームのために何をすべきかを考え、行動に移し、勝利に貢献するための視点。マネージャーは自らの目標のために必死になって成果を出す。というよりは誰かのために行動し、誰かの目標が達成できた時、それを一緒になって喜び、自分にとっての幸せや価値になっていると考える。(マネージャーの方々間違っていたらごめんなさい。)
私は怪我をして、長い間ピッチの外にいたからこそ、その視点を養うことができた。それまで私は怪我をした際、ただチームを傍観するだけで、自分のことだけを考え、チームへの貢献は何もしない日々を過ごしていた。だが、マネージャーの手伝いやスタッフの手伝いをするうちに、“チームのために行動すること”が自らの使命であると感じるようになった。
プレーヤーとして機能しないのであれば、チームのために動けばいい。
個人の目標がないのであれば、チームの目標に向かって動けばいい。
サッカーに対する考えや過程は違えど、勝利という目的に対するベクトルが同じ方向に向いていれば何の問題もない。私はそれまで、自分の目標のために行動することがサッカーを続ける理由であると考えていたが、チームの目標を達成するため、チームの勝利のために行動することが私にとってのサッカーを続ける理由へと変わっていった。大学2年とは打って変わって、自らのサッカーを続ける理由を見つけることが出来た貴重な1年であった。
大学4年、最も感情が交錯した1年だった。
就職活動に追われ、忙しなくすぎていったオフシーズンを終え、ついに最高学年としてのラストシーズン。前年度、関東3部に降格し、チームとして関東2部昇格に向け、より一層気合が入った始動日であった。自身も大学サッカーラストシーズン、そして、長年続けてきたサッカーのラストシーズンとして例年よりも気合が入っていた。紅白戦はそれなりに調子も良く、前年度と同じくトップチームに残った。そんな中、始動後初の練習試合(対桐蔭横浜大学)。様々な要因が重なったことで、運良くトップチームのスタメンとして試合に出場した。入部当初サテBにいた私にとって、現実とは考えにくい状況に緊張感と高揚感を覚えた。相手は関東一部リーグに所属する大学であったため、かなり難しい試合になることを予想していたが、図らずも無失点で試合に勝利することができた。練習試合とはいえど、J1内定者要する大学から勝利を挙げられたことはかなり嬉しい出来事であった。センターバックとして無失点に抑えた自身も及第点は与えられるくらいの活躍をしたため、サッカーへの熱が冷めている期間はあったものの、やっと4年間地道に努力した結果が現れ始めたのだと確信した。
その一方で、1週間後に実施される御殿場合宿と就職活動の予定が重なっていたため、この試合でいくら活躍しようとすぐにサテAに落ちることは理解していた。
案の定、御殿場合宿後にサテAに降格した。4年でカテゴリーが動くことはほとんどないため、今シーズンはサテAでIリーグの全国大会に出場するために尽力しようと決意した。しかし、Iリーグ開幕戦(対産業能率大学)、自身のミスもあり3失点を与えてしまい、敗戦。そこから、流れを切ることが出来ず、3連敗を喫した。4年としてチームを立て直すことが出来なかったこと、ここで勝てていればその後降格することはなかったことを非常に後悔している。
私のサテAでの活動はここで終わった。
というのも、自分でも予想外だったがトップチームに昇格をした。正直、また3年のときのようにトップチームで試合に絡めないよりはサテAで試合に出る方が良いと考えていたので、降格した選手には申し訳ないが、カテゴリーのボードを見た瞬間は素直に喜ぶことはできなかった。だが、チームに求められているのであれば、やるしかないとトップチームの目標に向け、尽力することにした。それが何よりチームのためになると。
昇格後は果然、全く試合に絡むことはできず、相手チームの想定、いわゆるスパーリングの相手をする日々が続いた。ただそれがチームのため、チームの目標になるならと思い、特に何の主張をすることもなく、相手チームの想定に徹した。私は当時、このまま関東リーグのベンチに一度も入ることもなく、ただチームのために行動し、サッカー人生を終えるものだと思っていた。どこか寂しいような、悔しいような想いを持ちながらも何度も‘チームのため’と自分に言い聞かせ、行動していた。
そんな中、サプライズが起きた。
「智暉メンバー入ったよ」
4年間で初めてトップチームでベンチ入りをした。
試合前、LINEに送られてくるメンバー20人には入れる気が全くしていなかったため、確認すらしていなかった。チームメイトからそう言われた時は何のメンバーかすら、理解できなかった。だが、自分でも確認すると確かに自分の名前があった。全く予想をしていなかったタイミングでのメンバー入り。それも集中応援。プロが使うグラウンドで。普段からメンバーに入っている選手の前で喜びを露わにするのは恥じらいがあったため、少しスカしていたが、本心はとても嬉しかった。‘チームのために’と行動していたことが報われたような気がした。当日、試合には出場することはなかったものの、スタンドから聞こえる声援。ピッチの天然芝の感触は一生忘れることはないだろう。
その後、次の試合の共栄戦はベンチ入りしたものの、後期のベンチ入りは11試合中わずか3試合のみ。
これが現実である。
定期戦や練習試合でスタメンとして出場することはあったが、体調不良や怪我で自らチャンスを逃し、信頼を得ることが出来なかった。チームから必要とされていたにも関わらず、活躍できなかったことには腹が立ったが、それも実力のうちなのだろう。
再びスパーリングをする日々へと戻り、‘チームのために’行動した。
ただ、‘チームのために’とは言いつつも、正直、自分が何をやっているのかわからなくなることは何度もあった。連敗している状況で、どんなに良いプレーをしてもベンチにすら入ることが出来ない。いくらチームを鼓舞しても自分に何のメリットもない。チームの目標のためだけに毎朝5時に起き、睡魔に襲われながら電車に揺られる日々は何の意味があるのか。そんな葛藤に加え、応援してくれる両親に活躍する姿を見せられないことが本当に申し訳なかった。
それでも、自らを奮い立たせることができたのは、チームのために動いている仲間の存在があったから。チームの誰よりも責任を感じるキャプテンを務め、誰よりもチームのために時間を使っていた磯村(4年・名古屋高)や普段は何も考えていないのに分析部門長として責務を果たす如人(4年・ヴェルディY)、ベンチ入りできず、スパーリングに文句を言いながらも相手の特徴を想定する後輩たち。
そんな仲間の存在があったからこそ、理不尽や不満にも耐えることができ、最後まで前を向いて‘チームのために’行動できたのだと思う。
“One for All, All for one” まさしく、この言葉が4年間を物語っている。仲間がいなければサッカーを続けられていなかった。チームが無ければサッカーを続けられていなかった。
だからこそ、自信を持って答えられる。
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