『軌跡』/ 磯村慶人
『軌跡』/ 磯村慶人
今シーズン主将を務めさせていただきました青山学院大学経営学部経営学科4年の磯村慶人です。今年1年間、青山学院大学サッカー部へのご支援、ご声援をありがとうございました。
時の流れは早いもので、先輩方の引退ブログを読み感動を味わってきた立場から早くも4年となり自分たちの番がやってきました。先程、部室に公式戦のユニフォームを返しにいき、本当に大学サッカーが終わった実感が湧きました。
既に期日を過ぎてしまっているため、早く提出しなければならないこの引退ブログですが、こういった類いのものは苦手分野であり何を書けばいいかわかりません。
なので、自身の大学サッカーでの4年間を振り返り、当時感じていたことなどを素直に書き残したいと思います。
膨大かつ稚拙な文章になると思いますが、少しでも多くの人に読んでいただけると嬉しいです。
2020年10月24日高校サッカー選手権愛知県大会3回戦敗退。
この悔しさを糧に大学サッカーに向け本気で準備を始めた。高校サッカー引退後も部活に参加をさせてい身体を動かし、インソール会社の社長の元で2月末まで毎日トレーニングを重ねフィジカル強化に努めた。
そして、高校まで一度も全国大会に出場したことはなく、県選抜はおろか地区選抜にも選出されたこともない私が「大学サッカーで活躍し、プロサッカー選手になる」という遥か遠い夢を追いかけるべく、希望を持って青山学院大学体育会サッカー部の門を叩いた。
2021年3月に上京。
当時、緊急事態宣言が発令されており、スポーツ推薦組のみ練習参加を許可されているような状況の中、解除された次の日に銀と一緒に初めての練習参加をした。
練習参加初日、衝撃を受けた。
部員の面々は、Jリーグ下部組織出身、全国大会常連校出身の選手ばかり。先輩や推薦組が着ている練習着を見てグラウンドに入ろうか躊躇したことを今でも覚えている。
トレーニングにおいても、足元の技術、スピード感、体格、フィジカル能力、認知判断実行の質、何をとっても自分が勝るものはなく、自分の武器であるドリブルが通用することもなかった。
ハイレベルな環境である大学サッカーで試合に出場し活躍することは想像以上に厳しいことを感じた。
しかし、こんなことで落ち込んでいる暇もなく、トレーニングをするほか無かった。最初に取り組んだのはフィジカル強化。始まった庄司宙ノ介との筋トレ。今となってはトレセンの重鎮として、アイシングという名目の元、練習後に日々大富豪に励むようになってしまったが、当時は彼と毎日筋トレをしていた。筋トレをするにも理由があった。3月に感じた圧倒的なスピード感、フィジカル能力を埋めるため、そして自分の武器を作るためだった。入学当初は、179cm/60kgと周りと比べても圧倒的に細く、当たり負けも日常茶飯事であった。体で負けるのが怖くてプレーが消極的になり、いいプレーが生まれないという悪循環を断ち切るため、大学サッカーに適応するレベルのフィジカル能力を身につけようと考えた。加えて、当時スポーツ推薦組で練習していた、よし、翼、かいと、りくと、だいさく(ゆきとはいなかった気がする)。彼らに技術で勝ることは不可能だと思った。この差を4年で埋めることはできないと思い、新たな武器を作り勝負しようと考えた。
4年間の筋トレにそらの影響は大きかった。身長が同じくらいでフィジカル能力も大きな差はなく、負けていたのは体重と髭の濃さくらい。そらに筋トレとフィジカルで負けたくないと思った。1番近くにいて切磋琢磨できる仲間だったし、1番長い時間を過ごした。結局、4年のフィジカルテストだけはそらに負けた。悔しかった。
でも、サッカー人生の最後がそらとの交代だったのは、すごく嬉しかった。
4年間ほんとにいいライバルでいてくれていい友達でいてくれてありがとう。山形の隠れ続けた逸材。
この筋トレの成果もあり、1年生は、サテライトA(2軍)でシーズンを過ごすことができた。ありがたい事にも直さんに試合に使ってもらった。しかし、チームは連敗続き。個人としてもシーズンを通して3得点のみ。結果を残すことができなかった。そして始めた練習後の居残り練習。練習後に、そらやともき、先輩方のDF陣に付き合ってもらって、1vs1の対人練習を何度も繰り返した。相手を抜ける時と抜けない時の差を自分なりに解釈し、それを詰めていく作業を繰り返した。すぐに成果は出ることはなかったが、1vs1での自信が生まれ、相手を抜く感覚が刷り込まれていったのはこの時期がすごく大きかった。
こんな感じで、筋トレと居残り練習をする1年間を過ごした。個人的には全く結果を残すことはできなかったが、サテ Aは奇跡の残留、TOPチーム(1軍)は最終的に関東2部昇格を成し遂げた。
天皇杯前に膝の靭帯を損傷し、リハビリから2年目が始まる。
2年目、2022シーズン。
膝の靭帯損傷のリハビリを必死に頑張り、始動後1週間後には完全復帰でチームに合流することができた。そして迎えたカテゴリー分けのゲーム。完全復帰後すぐのゲームで謎の調子の良さを見せ、得点を挙げた。なんとかTOPチームに食い込み、レギュラー争いが始まった。天皇杯前にトップに上がっていた人を中心にメンバーが構成されていたため、序列はチーム内で最下位。序列を上げるには結果を残すしかなかった。
プレシーズンの練習試合の法政大学戦。なぜかは覚えていないが、まさかのスタメンに抜擢。そして奇跡の得点。相手選手のビルドアップのミスを掻っ攫い、GKとの1vs1を沈めた。そこからは、絶好調期間。得点やアシストで結果を残し続けた。
この時期に自分は、能力が向上したから結果を残せているんだと考えていた。
しかし、それは偶然であり、長くは続かなかった。
迎えた4月、慶應義塾大学戦。まさかの関東リーグ開幕レギュラー。同期の誰よりも早く関東リーグのピッチに足を踏み入れた。感覚は悪くなかった。雨の中で緊張はしていたが、自分のプレーは出せていた。そして迎えた絶好のシュートチャンス。プレシーズンで決めていたシュートより簡単なものだった。しかし、相手DFに阻まれ無得点。関根君のゴールで試合には勝ったが、今までの好調さはなくなっていた。
その後、関東学院、東京学芸を1-0で倒し3連勝で迎えた中央大戦。個人として何も仕事ができずチームも敗戦。ここで力不足を大きく感じた。武器にしていたフィジカルもトップでは並レベル、ドリブルも通用せず、ボールを失う。今までの錯覚が露呈した結果になった。そして、次節を迎える前に腓骨骨折。1ヶ月以上の離脱を余儀なくされた。チームも中大戦の敗北から連敗続きで降格圏に転落した。怪我から復帰後、チーム状況もありレギュラーに復帰したものの、案の定負の流れを何も変えることはできず中断期間に突入。そこからは試合に絡むことすらできなかった。
理由は明確だった。
1年の頃に持っていた熱量が試合に出れていた事に満足し、圧倒的に薄くなっていたこと
能力が伸びたと錯覚し、過信していたこと
この2つだ。
そして、降格圏から脱出すべく臨んだ後期リーグ。
メンバーを一新した青学は驚異の6連勝を挙げ、最終節で残留を決めた。
もちろん、チームの残留は嬉しかった。来年もこのリーグに残って試合ができるという環境があったからである。しかし、個人としてはリーグ戦11試合で1000分近く出場し0得点0アシスト。本当に何もできなかった1年間だった。2年連続で個人的な大きな成果、成長は感じなかった。
ただ、この1年は自分にとって意味のあるものだった。
試合に出られない時期に自分の何が弱さだったのかを見つけ出すことができたこと。
自分の武器はカテゴリーが上がれば簡単に通用しなくなること。
同期である翼、よし、ゆきとが活躍し続けていたこと。
この3つが自分を3年以降に奮い立たせる大きな原動力となった。
それに加え、4年生の背中は大きな目標となった。
カテゴリー関係なく、仲間を応援する一体感。
チームの大きな理念であるfootball +1を体現しようとする気概。
千綿君のリーダーシップ、それを支える幹部以下、同期の存在。
試合に勝てない時期における練習や試合への取り組む姿勢。
個人としての課題と大学サッカーにおけるチームマネジメントの一端を感じることができ、残り2年間の自身の取り組みに大きな影響を及ぼした。
しかさ、残留決定後、第五中足骨骨折。2022年も後味の悪い終わり方となった。
小休憩。
この代の4年生がすごい大好きでした。特に達也君と風士君にはとてもお世話になりました。2人に限らず、兄のおかげで多くの人とたくさん話すことができてよかったです。
このブログをみた4年生とご飯に必ず行きます。連絡してください。
よろしくお願いします。
あと、この年同期の活躍は凄かったなあ。
TOPの同期はもちろん、サテライトでも多くの同期が活躍していた記憶があります。
良い経験とそうではない経験にたくさん刺激をもらった一年でした。
個人的に勝負の1年間になる3年生、2023年を振り返ります。
前年に負った怪我のリハビリから始まった2023年。シーズン明けのカテゴリー分けゲームはおろか、関東リーグの2週間前まで完全復帰することができなかった。
復帰後は、サテライトB(3軍)からのスタート。
リハビリを真面目にやっていたおかげで体力的な問題はなかった。試合でも走れたし、技術的にも大きく低下していないと思っていた。
サテライトで2、3週間プレーした後、TOPに上げてもらった。個人的にはここまで順調だった。そして、チームとしても関東リーグ3戦負けなし。絶好調だった。
そして4節目、vs日体大。前年以来のベンチ入り。
前半によしからの絶妙なスルーパスに空斗が抜け出して得点。流れを掴んだまま、後半へ。そして、後半の早い時間から途中出場。与えられたタスクは、縦への仕掛け、そしてリードを守り勝利して帰ってくることだった。
出場直後、カウンターのチャンス。ドリブル、パス、シュートなんでもできる場面。
選択したプレーは、捻挫。面白くない。
身体が異常に重かった。関東という場でプレーするにはまだコンディションが整っていなかったんだと実感した。
しかし、守備陣の懸命の守りにより1-0のまま後半ロスタイムに入った。
与えられたタスクの2つ目、「勝利して戻ってくる」はまだ果たせる状況にあった。
ここからはみなさんお馴染み。
後半ロスタイム、相手のコーナーキック。
身長はチームの中で1番高かったので、相手のターゲット(確か22番)のマークについた。
これを守れば勝ち点3。
ニアにクロスが上がり、22番がそこへ走る。マークはしていたはずだった。
突如、相手選手にブロックされ、非情にも22番の頭へ。
フリーの状態でヘディングされ、ポストにあたりゴールネットへ。失点。
勝ち点2が離れていった。
チームメイトからの罵倒は必然だった。多くの人が落胆した表情を見せ、それを見るのが辛かった。完全に自分のせいで勝利を逃した。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
その後はあまり覚えてない。
この試合を機に、試合に絡めない時間が増えた。
しかし、それを悲観することなく、まずは失った信頼を取り返すしかないと思い、毎日の練習を大切にしたし、チームにプラスになる行動を心がけた。
1ヶ月くらい試合に出られなかったが、出場選手の怪我などの影響もありレギュラーに復帰することができた。
この1ヶ月も個人的に必要な時期だった。
リハビリ時に増えた体重を落とし、ベストコンディションを作れたこと。
同じポジションの星太、大策を上回るために何が必要かを考えられたこと。
前年の出られない時期から得られた教訓、
自分に常に矢印を向けて、どうしたら試合に絡むことができるかを考え続けること。
能力の低さを謙虚に受け止め、努力し続けること。
多くのことを再認識して、行動し続けることによって、後期は試合に絡み続けることができた。
しかしチーム状況は、日体大戦以降下降傾向にあった。
前期を終えたタイミングで残留争い。
後期も厳しい状況を強いられ、最終節終了時点で10位。残留プレーオフに回った。
12/2 vs慶應義塾大学
引き分け以上で残留が決まる試合。
最大限準備した。個人としてもチームとしてもやるべきことはやった。
しかし、1-2で敗戦。
固い守備を崩すことができず、3部降格となった。
ただ悔しかった。2部と3部では大きな差があると当時思ってたし、注目度も違う。人生で1番泣いた。
個人成績は、15試合近くに出場し1得点0アシスト。3年連続で物足りない成績だった。
しかし、天皇杯予選がすぐ控えていたため、心の切り替えが必要だった。
みんなは落ち込み気味でネガティブムードだったが、新チームの主将として元気な姿を演じていた。そして空回り足首捻挫。
予選には出られず、チームも敗退。
情けないスタート。ラスト一年の2024年へ。
2023年は、進路のことも考えることが増えました。
これまでの成績で、正直プロサッカー選手は厳しいと思ってました。
関東リーグ合計25試合で1得点0アシスト。
前線の選手で物足りなすぎる結果でした。
だから就職活動もしました。
ゆきとに、どうせ就職するでしょ。と言われていたのをずっと覚えています。
みんなには、「俺は焦りたくないから就活をする」って言ってたけど、内心は「プロは正直厳しいから、しっかり就職先見つけたいな」と思ってました。
強がってごめんなさい。
気を取り直してラスト、2024年、最終学年の主将としての1年間。
チームスローガンは変革、目標は関東3部優勝、2部昇格。
個人的にはプロを目指せる最後の1年間。
多くの想いが重なる1年をワクワクと固い覚悟を持ってシーズンを始めた。
自分に与えられた役割は必ずこのチームを昇格させることだった。
部門の活動の編成やチームのルールなどピッチ外の活動にも目を向け、改革を行おうと尽力したが、そのことを書くと長すぎるので割愛させてもらいます。
今年のプレシーズンは、悪くなかった。
上のカテゴリーとの試合も、勝利が多かったわけではないが組み合っていたし、御殿場合宿や沖縄遠征を通じ、チームとしての一体感の醸成や目指すサッカーの積み上げが微量ではあるができていたと思う。
自分はサイドバックとして、チームを後ろから支える役割にチャレンジした。
個人的な手応え、チームとしての手応えもあった。
「関東3部、全部勝って優勝だ」そう思っていた。
関東開幕戦は、昇格組の国際武道大学。
開幕戦の独特の固さもあり、なかなかゴール前までボールを運べない。
相手は割り切ったサッカーでロングボールを多用して押し込まれる時間が増える。
後半、自陣でもミスから失点。開幕戦を0-1で落とした。
その後、5戦で2勝3敗。8位。
関東3部の雰囲気や相手に対応できず黒星を重ねた。
サイドバックとしてのプレーも良くなかった。攻守での貢献ができず、チームも勝たせられない。非常に辛い時期だった。
みんなは知らないと思うけどこの時、厚さんに主将を辞めたいって言った。
プレーでもチームに貢献できないし、チームをまとめられている気がしない。負けが立て込み方向性もバラバラ。
自分よりカリスマ性があり、チームをまとめられる人がいるんじゃないかそう思った。
めっちゃダサい。
しかし、厚さんは自分を信頼して選んでくれたって言ってくれたし、せいたにも励ましてもらった記憶がある。
この時に、厚さんに恩返しをしたい、絶対この人と昇格したいって思った。
そして、後輩に必ず関東2部を残そうと思った。
そして臨んだ首位東農大戦は、サイドハーフとして一つポジションを上げてプレーし、得点と勝利をあげることができた。
そこからは連勝で前期終了時には首位争いに食い込む立ち位置を取り戻した。
中断期間では厚さんと何回も話をした。
この中断期間が後期に向けて何よりも大切な時間であると思っていたから。
毎日の練習のメニューからチーム戦術の方針の決定、部員と部員の関係性、何度も話し合いを重ねた。
本気で勝ちたいと、昇格したいと2人とも思ってたからこそ、練習後に3、4時間近く話をしたり、意見をぶつけ合ったりした。
関西遠征では後輩と夜遅くまで面談する時間をもらって、多くの人から意見を聞き入れようと自分なりに工夫をして時間を過ごした。
そして監督と話し合い、決断。
「繋ぐサッカーから縦に速い、割り切ったサッカーに変えよう」
厚さんは徹底と判断という言葉で提示してくれた。
後期リーグ再開後、3戦2勝1敗。手応えはあった。
しかし、亜細亜大学戦を機に5連敗。
自動昇格、優勝はおろか、昇格PO圏内入りも他力という状況になった。
この時期が本当に1番辛かった。
すぐ近くにあった昇格が段々と離れていく感覚。
負けムードが漂う中での毎節のキックオフ。
遠くまで足を運び、勝利を信じて声を張り続ける応援部員への申し訳なさ。
勝てない理由は分からなかった。
分析も何度もした。監督含めスタッフとも何度も話し合った。
選手も100%を出して戦ってる。本気で勝ちたいと必死になって走り続けている。
スタッフ、応援含めて一体感もあったと思う。
でも勝てなかった。
そして迎えた最終節。
平成国際大学に勝利したものの、他会場の結果により昇格PO圏内には届かず。
そらと交代し、厚さんに状況を聞いた時「厳しい」と。
その状況下でありながら声を出し続ける試合に絡めない80人の部員達を見た時、涙を抑えることができなかった。
結局、昇格POに進む権利すら得られずに、サッカー人生は幕を閉じた。
タラレバはたくさんある。
あの試合に勝っていれば、あのPKを決めれていれば、あのミスがなければ、あいつが試合に出ていれば、後ろからしっかりビルドアップしていれば。
シーズンを振り返るといくらでもそういったところはある。
しかし、これが1年間の活動の全てであり、この結果をチームにもたらしたのは主将である自分の責任であった。
申し訳ないという気持ちしか出てこなかった。
主将としての役割を果たせなかったこと、何も後輩に残すことができなかったこと。
これがサッカー人生の結末かと思うと、肩から力がスッと抜け、立ち上がることができなかった。
2024年11月16日 引退
これが私の4年間に及ぶ大学生活の記録です。いかがだったでしょうか。
引退ブログという名の、私の大学サッカー記録になってしまいました。申し訳ございません。
主将としての1年間は、非常に大変だった。
1年生全員と話した3月の5日間。
練習の雰囲気を良くするために声を出し続けた日々。
緩いときは本気で怒りをぶつけ、納得がいかない時は練習後MTGで話をしたこと。
個人的に面談をして、自分の思いをぶつけたこと。
部員全員を集めてMTGしたこと。嫌われ役に徹したこと。
正直、うるさいなって思われてたことの方が多いと思うけど、自分のできる主将としてのあり方はそれしかなかったのかなって思います。
そして、何よりも、勝敗の責任は自分にあること。
監督と意見交換をし、方針を決める。そして100名の代表としてプレーをした。
勝てなかったら1番に矢印を向けられるのは監督と自分。
結局、21試合に出場し7得点1アシスト。得点関与も少なく、点が取れないのが常に申し訳なかった。
負けた時に、みんなに落胆の表情をさせてしまうこと、厚さんに俺の責任だと言わせてしまうこと、遠方まで応援にきてくれる保護者、そして試合に絡めていない80名の選手全てに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ただ、最後まで姿勢で見せるしかない。そう思っていたからこそ、みんなが全力でプレーし応援してくれたからこそ、最後までやりきれたと思います。
苦しい時間が多かったけど、4年生の1年間は大きな宝物になりました。
自分ではなくチームを優先する目を持てたこと。
試行錯誤を重ね、自分の立場や役割を見つけ出せたこと。
強い覚悟を持って1年間サッカーに全力で取り組めたこと。
これは間違いなく財産です。
自分を信頼してくれていた人は少なかったと思うけど、最後までついてきてくれた幹部や同期、後輩には本当に感謝しかありません。ほんとうにありがとう。
また、個人としては大学入学当初に掲げた目標を達成することもできました。
プロチームからオファーをいただけたことは自分のこれまでの行動や努力に大きな意味をもたらしてくれました。
結果としては、就職という道を選ぶことを決断しました。必ず後悔はあると思います。
しかし、この選択を正解にするために、社会人でも頑張っていきます。
最後に、何人かにメッセージを書き残し終わりたいと思います。
まず、両親。
大学まで不自由なくサッカーを続けさせてくれてありがとう。そして応援してくれてありがとう。プロと就職の進路を共に悩んでくれたこと尊重してくれたこと、感謝しています。特に母親は泣かせてしまって申し訳ないです。
感謝の気持ちで改めて。
兄。
何度も試合見にきてくれてありがとう。自慢のお兄ちゃんです。これからもよろしく。
同期
感謝の気持ちで。
山田武久監督、猿田さん、三宅さん、その他関係者
皆さんのサポートを裏切るような決断をしたこと、申し訳ないです。
改めて自分に選択肢を与えてくれてありがとうございました。
サッカーからは一度離れますが、次のステージで皆さんに恩返しできるように頑張っていきます。待っててください。
りんかちゃん、あやかちゃん、かあなちゃん
本当にありがとう。
4年生のマネージャーがいなくて大変だったと思うけど、3人のおかげでサッカー部は1年間不自由なく活動できました。
猛暑の中、選手のために氷を入れ続けてくれること、朝当たり前にテーピングを巻いてくれる環境があること、試合中に素晴らしい写真を撮ってくれること、他にも運営などでたくさん。凄すぎます。
来年以降も体を壊さない程度に全力で選手をサポートしてあげてください。
本当にありがとう。大尊敬です。
星太
1番後輩で頼りになる存在でした。
あなたがいなければ最後までやり抜くことは不可能だったでしょう。
最終節泣いてる星太を見て、自分が本当に情けない気持ちでいっぱいになりました。
来年こそ、主将として青学サッカー部を昇格に導いてください。
がんばれせいた。
優羽
青学を選んでくれてありがとう。
目標はわからないけど、俺はtopで活躍している姿を見たいと思ってます。前も言ったけど、後悔なくサッカーを終えられるように後1年頑張り続けて欲しいです。
瀧口
こんな長く一緒にプレーできると思わなかったです。来年はもっとチャンス増えると思うから必ずレギュラーで試合に出てください。プロを目指して愚直に頑張って欲しいです。
厚さん
1年間ありがとうございました。
こんなに多くの時間を過ごすことになるなんて入学時には想像もつかなかったです。
頼りない主将でたくさんの迷惑をかけました。
どんな時も自分を信じて試合にも使い続けてくれたこと、常に寄り添い続けてくれたことには感謝しかないです。
だからこそ、厚さんを胴上げしたかった。本当にすみません。
後輩達へ。
選手起用や練習のメニューなど、厚さん含めスタッフ陣に不満が出る時もあると思うけど、大人もたくさん悩んで、決断をしています。
だからこそ、最後までチームを信じ続けて2025年を戦い続けて欲しいと思います。
来年こそ厚さんを「昇格の漢」に戻してください。
長いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
これをもって、青山学院大学体育会サッカー部2024年の全ての活動が終了しました。
本当に1年間、本学サッカー部への温かいご支援ご声援をありがとうございました。
ここまで読んでくれた人は少ないかもしれませんが、感想くれると喜びます。
とにかく充実した大学生活4年間、サッカー人生の幕引きでした。
サッカーからは離れますが、変わらず磯村慶人を応援してくださると嬉しいです。
あの得点を決めた高揚感も、苦しみながらも勝利した試合で仲間と喜びを分かち合う瞬間も、辛い練習を乗り越え、仲間と切磋琢磨する貴重な時間も、カテゴリー関係なく応援するあの最高の時間も、間違いなく青学だったからこそ、そしてサッカーというスポーツだったからこそ味わえたことだと思います。
一生物です。
4年間楽しかったな。青学選んでよかった。ありがとうみんな。ありがとうサッカー!
青山学院大学体育会サッカー部2024年主将 磯村慶人
2025/01/16 06:56